第五部:有機化学の基礎 脂肪族炭化水素の基礎
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ここでは,有機化合物の立体異性体の一種で,鏡像関係にある異性体について, 【エナンチオマーとは】, 【立体異性体名の表記法について】, 【分子構造式の表記法(投影式)について】 に項目を分けて紹介する。
エナンチオマーとは
エナンチオマー( enantiomer :鏡像異性体)
互いに鏡像関係にある異性体をいう。前項「立体化学」でも紹介したが,下図の乳酸における関係である。
なお,一般的には,光学異性体ともいわれるが,IUPAC(国際純正・応用化学連合)ではこの表記を推奨していない。
鏡像関係( enantiotopic )
三次元空間の場合,ある一つの二次元空間(完全な平面:超平面)を定めた時,ある点をこの超平面に対し対称な点に写像すること,この点同士の関係をを鏡像という。
一般的には,鏡像同士は,特定の対称性を持たない限り,像の回転と並進では重ね合わせることができない。しかし,有機化合物の場合は,液体や気体の状態では,炭素–炭素間の単結合周りで回転できる。分子の回転,並進,及び単結合周りの回転で重なり合わない鏡像分子同士は鏡像関係にあり,それぞれをエナンチオマーという。
エナンチオマーが存在する分子をキラリティがある分子(キラル分子)と呼び,鏡像同士が回転や並進や単結合の回転で重なり合う分子をキラリティが無い分子(アキラル分子)という。
キラル( chiral )
3次元の図形や物体や現象がその鏡像と重ね合わすことができない性質をキラリティ( chirality )という。右手の手のひらと左手の手のひらの関係と同等のため,掌性や対掌性(対称性ではない)ともいわれる。
キラリティがあることをキラルという。一方でキラリティがないこと,すなわち鏡像同士が並進,回転で重ね合わせられることをアキラル( achiral )という。
多くのキラル分子は不斉炭素原子などの不斉中心を持つ。
不斉炭素原子( asymmetric carbon atom )
分子中の1つの炭素原子が異なる 4つの置換基を有するとき,その炭素原子を不斉炭素原子(不斉炭素)と呼ぶ。
不斉( asymmetry )を示す原子として,炭素原子に限定しない場合は不斉原子( asymmetric atom )や不斉中心( asymmetric center )という。
なお,化合物の示性式や構造式の中で,不斉原子を明確に示したい場合に,C* のように原子の右肩に*を付けて示す例も多い。
不斉炭素は,分子のキラリティのひとつの要因であるため,キラル中心( chiral center )とも呼ばれる。
炭素原子以外の不斉原子には,炭素同様の結合が可能な周期表第14族のけい素( Si ),ゲルマニウム( Ge ),鉛( Pb )がなりうる。また,アンモニウムイオンの窒素( N+ ),金属錯体の中心金属なども不斉中心になりうる。
【参考】
立体化学( stereochemistry )
3次元的な分子構造,構造を調べる方法論,構造由来の物性論などに関する学問領域である。
有機化学物質の立体的構造は,物性に極めて大きな影響を及ぼすこともあり,化学の基本的な分野である。
一般的な用語として頻繁に登場する異性体( isomer ) は,同じ分子式(原子の組成が同じ)であるが,各原子の結合の種類,方向などの分子構造が異なる分子をいう。ある分子が異性体に変化することを異性化という。
異性体は,次に説明するように,構造異性体( constitutional isomer ,structural isomer )と立体異性体( stereoisomer )に大別される。
立体異性体の原因となりえる分子に固有な原子の空間的な配置を立体配置( configuration )という。
なお,単結合まわりの回転などで生じる通常の条件で相互に変換可能な空間的な配置は,後述のジアステレオマーで紹介する立体配座( conformation )であり,立体配置と混同しないように分けて用いる。
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立体異性体名の表記法について
原子の結合順番が同じで,立体配置が異なる立体異性体の IUPAC の推奨する表記方法には,R /S 表示法,D /L 表示法,E /Z 表示法などがある。
エナンチオマーの絶対立体配置の表記には R /S 表示法が,相対立体配置の表記には D /L 表示法が用いられる。
E /Z 表示法は,後述のジアステレオマーのシス‐トランス異性体で用いられる表記法である。
なお,古くから用いられた光学異性体の旋光性を意味する d /l 表記表は,相対立体配置の D /L 表示法と混同されやすいので,IUPAC では (+) , (-) での表記を推奨している。
R /S 表示法
R /S表示法は,不斉炭素に結合する 4 個の置換基の優先順位により S または R を用いる絶対的な立体配置の表示法である。この表示法は,IUPAC 命名法に基づいて絶対立体配置を示す際に広く用いられている。
不斉炭素が n 個ある場合,その化合物の異性体は 2n 個存在できる。この中から 2 つ選択したときに,エナンチオマー,ジアステレオマー,あるいはメソ体の関係のものが得られる。
なお,メソ体とは,分子内にキラル中心を持つが,同時に対称面も持つためにキラリティを示さない化合物をいう。
例えば,不斉炭素が 1 つであれば,2 個の異性体 R体とS体がエナンチオマーとなり,不斉炭素を 2 つ持つ化合物では,4 個の異性体が存在し,その中でRR 体と SS 体が並進,回転で重ならないエナンチオマーになり,SR 体と RS 体は,分子内に対称面を有し,不斉炭素を持つがキラリティを示さないメソ体となる。
手順
はじめに不斉炭素に結合した 4 置換基(原子)に,CIP 順位則(カーン・インゴルド・プレローグ順位則: Cahn – Ingold – Prelog priority rule )に従い,優先順位を付ける。
次いで,順位 4 番の置換基(多くの場合は水素)を紙面奥側になるように構造式を回転させる。
最後に,置換基の順位 1 ,順位 2 ,順位 3 の順に見た時,それが時計回り(右回り)なら R 体,反時計回り(左回り)なら S 体とする。
CIP 順位則
CIP 順位則には,分子の大きさ(原子数),鎖式と環式で複数の手順がある。ここでは,基本となる原子数が多くない鎖式脂肪族化合物の例を紹介する。
① 置換基の不斉炭素に直接連結している原子の原子番号の順。
例えば,置換基が水素( H ),メチル基( −CH3 ),アミノ基( −NH2 ),ヒドロキシ基( −OH )の場合は,直接結合の原子( H ,C ,N ,O )の原子番号順に,1 ヒドロキシ基,2 アミノ基,3 メチル基,4 水素の順になる。
② 直接結合する元素が同じ場合は,それに続いて結合する原子の原子番号を比較する。
③ 同様にして,結合する原子を比較し,違いが現れたとき,最も不斉炭素に近い相違点で順位を決定する。相違点から先にどんな原子が結合しても,相違点の原子でのみ比較し,次に続く他の原子は順位に影響しない。
例えば,ヒドロキシメチル基( –CH2–OH )とトリクロロエチル基( –CH2–CCl3 )の比較では,最初の相違が 2 番目の酸素と炭素で,3 番目の水素と塩素は無関係となり,ヒドロキシメチルの準位がトリクロロエチルより優先される。
前述した R /S 表示法とここで説明する D /L 表示法とは定義が異なるので互いの相関はない。また,参考で紹介する旋光性を意味する d , l 表示とも相関が無い。
D /L 表示法は,上図の d – グリセルアルデヒドの立体配置を基準として,この立体配置を崩さずにできる化合物を D –体とし,その鏡像異性体を L –体と表記する相対立体配置の表示方法である。
【参考】
一般的には,CIP 順位則による R /S 表示法が用いられるが,生体由来の糖やアミノ酸では,旧来から光学的な特性(旋光性)の違いにより,右旋性 d ( dextro – rotatory ,IUPAC では (+) 推奨),左旋性 l ( dlevo – rotatory ,IUPAC では (−) 推奨)を用いていた。
旋光性が違う異性体について,光学異性( optical isomerism )の用語が用いられたが,今では分子の構造に由来する異性体を示すため,光学異性体とは言わずエナンチオマーというようになった。
なお,分子構造に由来する D /L 表示法と光学活性を示す d /l 表示法は定義が異なるので,IUPAC は混乱を避けるため,d /l ではなく (+) /(-) を推奨している。
なお,旋光( optical rotation )とは,直線偏光が通過した際に回転する現象で,不斉な分子の溶液や,偏極面を持つ結晶(水晶)などで起こる。
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分子構造式の表記法(投影式)について
分子の立体構造を平面上に書き表すために使用される化学式の書き方を投影式という。投影式には,次の種類がある。
フィッシャー投影式( Fischer projection )
注目する不斉炭素について,上向きの置換基を左右に,下向きの置換基を前後になるよう配置した絶対立体配置を表現する一般的な方法である。
ハース投影式( Haworth projection )
環状構造を持つ糖類の立体配置を表現する際に使用される構造式である。環状の糖(五炭糖,六炭糖など)の環を上下につぶした形(五角形や六角形)で表す。
ニューマン投影式( Newman projection )
1つの結合とその両端の原子の側鎖についての立体配座を表現するための構造式である。ジアステレオマーの立体配座の説明などで便利である。
ナッタ投影式( Natta projection ),ジグザグ表示( zig-zag projection )
主鎖をジグザグの直線で書き,手前に位置する置換基を太線のくさび形で,奥に位置する置換基を点線のくさび形で描く方法である。高分子(ポリマー)の立体規則性を表わすのに便利である。
のこぎり台投影式( sawhorse projection )
2 つの隣接する炭素原子間の結合を斜めの線で表し,のこぎり台の形の斜視図で示す。付加反応や脱離反応での分子の配座の描写に便利である。
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