社会資本:自動車と道路の変遷と現状
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自動車の発達
国産自動車
自動車が初めて輸入販売されたのは1901年(明治34年)である。その3年後の1904年(明治37年)には国産自動車が登場している。国産トラックは1924年(大正13年)に登場した。大正期の大都市では,路面電車,自動車の普及により,耐荷性に優れる鋼道路橋を建設するようになったが,まだ明確な設計基準はなかった。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で多くの構造物が大打撃を受けた。これを契機に,1926年(昭和元年)に「道路構造に関する細則案」が作成され,1939年(昭和14年)には鋼道路橋の設計標準となった。
第二次世界大戦(1941年~1945年)中の空爆で,大都市は甚大な被害を受け,1950年頃までは都市部の戦後復興に全力が傾けられた。1950年(昭和25年)になると朝鮮戦争に続く特需景気,ガソリン統制改廃(1952年)等があり,自動車を使う気運が盛り上がってきた。
国民車構想
1952年(昭和27年)には、国産乗用車工業の育成を目的に海外技術の導入と技術提携が進められ,日産がオースチン,いすゞはヒルマン,日野はルノーと組立及び国産化の契約を結び資料2),5~6年の間に国産化を達成した。トヨタは,1955年(昭和30年)に純国産技術で開発したという 「クラウン」 を発表している。また,同年には,通産省が 「国民車構想」 を発表した。「3C(カー,カラーテレビ,クーラー)が三種の神器」 といわれた1966年(昭和41年)は,後に 「マイカー元年」 とも呼ばれている。これは,この年に日産がサニー,トヨタがカローラを発表(前年にマツダがファミリアを発表)し,ファミリーカーと称されるユーザーの購買力に見合った価格,使いやすい性能の乗用車-の生産が本格的に始まったためである。
自動車生産及び保有台数の増加に伴い,道路輸送手段の主力が徒歩,荷馬車から自動車に移り変わり,道路構造物設計の考え方も大きく変化してきた。
道路橋設計に用いる活荷重(自動車荷重)は,1926年(大正15年)に一等橋で12トン,二等橋で8トン,三等橋で6トンと初めて規定され,その後1939年(昭和14年)に等級の分類の見直しと自動車荷重を一等橋(国道)で13トンなど引き上げられた。
自動車保有台数の増大,貨物自動車大型化
1956年(昭和31年)になると,図に示すように自動車保有台数の急激な増加や貨物自動車の大型化に伴い,一等橋の自動車荷重が20トンに引き上げられた。図の1990年代には貨物自動車の保有台数の減少が見られる。これは貨物自動車の大型化がさらに進んだためである。これにより,1994年(平成6年)には,一等橋の自動車荷重が25トンに引き上げられた。
自動車の保有数及び活荷重の推移から分かるように,1956年以前に設計された道路橋は,耐荷性が非常に小さいことが分かる。これが,1960年代からの道路橋架け替え数の急激な伸びの要因と考えられる。
【参考資料】
1) (社)日本橋梁建設協会編集,「新版日本の橋-鉄・鋼橋のあゆみ-」朝倉書店,2004年5月
2) 鈴木五郎「特集/西暦2000年を前に-自動車の昨日・今日・明日 日本の自動車100年-」(社)日本自動車工業会JAMAGAZIN1999年12月号
3) 平成17年警察白書,(財)自動車検査登録情報協会「自動車保有台数統計データ」,(社)新交通管理システム協会「日本の交通事情」
4) 国土交通省道路局,東日本高速道路(株),中日本高速道路(株),西日本高速道路(株),首都高速道路(株),阪神高速道路(株),名古屋高速道路公社,本州四国連絡高速道路(株)などのホームページ
5) 「道路橋示方書(I 共通編・Ⅱ鋼橋編)・同解説」(社)日本道路協会2002年など
6) 道路施設現況調査「橋梁現況調査」H21.4.1(国土交通省道路局)
7) 総務省行政評価局「社会資本の維持管理及び更新に関する行政評価・監視-道路橋の保全等を中心として-結果報告書」平成22年2月